探検!砲台跡(1)

東望山砲台跡

探検といえば、史跡を訪ねるというのは基本中の基本です。
そして、この辺で「史跡」といって真っ先に思い浮かぶものは、私の場合は砲台跡であります。
以前聞いたことあったんです。東望山に砲台跡が砲台跡があるって。

とにかく東望山に登れば砲台跡の看板があるだろう、というくらい下調べをせずに行ってまいりました。そんな行き当たりばったりな感じが好きなんです。

東望山へはTSUTAYAの横の坂道を上がっていきます。そこそこ急な坂道で、子供たちも自転車で登るにはさすがに厳しかったらしく、途中でばててしまい、結局私が自分の自転車と一番下の子供の自転車を両サイドで押しながら登るという状況になってしまいました。私もそこそこ辛いデス!

ある程度登ると左右に公園が見えてまいりました。
この辺りまで来ると坂道も緩やかになって子供たちも「公園だー!」とはしゃいでくれました。ホッ・・・。

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橘湾の先には牧島が見えます。うっすらと熊本の天草も見えているんですがわかりますか??

登りきったところには大きなグラウンドがあり、本日も地元の野球チームが練習をしておりました。元気がよくて気持ちいいですね!

しかし肝心の砲台跡はありませんが大丈夫でしょうか。もう下り道に差し掛かってしまいまs・・

tobo2っん??

と、下り道に差し掛かろうとしたところで遠くに青い看板を発見!
「市指定 東望山砲台跡」と書いてあります!ヒャッホーイ!

かろうじて道、みたい山道に少し入ると、さらに「こっち!こっち!」といわんばかりにセカンド看板発見!

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砲台跡といえば、以前壱岐の猿岩近くの砲台跡などいくつか行ったことがあります。さすがに砲台は残ってませんでしたが、大きな穴が開いていたり、レンガ造りのトーチカっぽいのが残っていたりと、砲台跡っぽさを感じさせてくれました。「ここの砲台跡ってどんなんだろう?ワクワク!」

そんな過剰な期待は持たない方がいいのかもしれません。

tobo4これのようです。

まあるい石の台座跡が地面に残されております。

看板があり、下記のように説明が書かれております。

佐賀藩諫早家は文久3年(1863)、領内の東望、牧島、蠣道の3箇所に台場(砲台)を築き、慶応2年(1866)に完成したが、この東望山砲台跡には直径3.6mの円形台座が残されており珍しい。周囲には石垣があったと思われるが、現在は残存していない。
砲台に設置された大砲の型式は定かではないが、長崎の佐賀藩蔵屋敷から日見峠越えで運ばれた六角砲であったという。明治2年(1869-1870)に砲台は廃止となり、同8年(1875)に取り除き命令が出て、大砲は島原の人に払い下げられたという。

明治に入って砲台取り除き指令が出て、跡形もなく砲台が片づけられる中、台座が残されているのはどうやら珍しいようです。
文献によると、こちらの砲台を管理するために現在の東望幼稚園(どこ?)近くに三こ中隊約600名ほどの守備軍がいたというのですが、驚く人数ですね。すごいな。

いやそれよりも何?東望、牧島、蠣道の3箇所に台場を築き?

他にも砲台跡があるのか!?

このような台座だったりが残されているのでしょうか。非常に興味をそそります。なんてったって、かき道はそこそこ知り尽くしているはずです。そのかき道のどこかに砲台跡があるなんて、場所を確認しておかないとひがなが住人としてのプライドが許しません。

というわけで、別の砲台跡を探すべく、探検!砲台跡は続きます。

探検!砲台跡(2)

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