[手話]その豊かな表現力はときに芸術

先日、なにとは申しませんが、ある式典の中継を観ておりまして、首長が壇上で発言をする際に、現場では手話通訳が付いていたのですが、話が始まると壇上の人物が画面に映されるのみで、手話通訳は残念ながら映像からは見切れておりました。

インターネットでのライブ配信だったのに字幕はきちんと入ってましたので、あらゆる方へわかりやすく情報を発信するというスタンスを放送局は持っておられたんでしょうけどね。

私の印象としては、この中継に限らず、現場では手話通訳がいるのに、通訳が画面から見切れてしまうというのは、よくあるように思います。なぜなら逆に手話通訳が一緒に映っていると、「お、(めずらしく)手話通訳が入ってる!」と思うからです。
手話を勉強する前から気になっていたとは思いますが、習い始めてからは、より鮮明に意識するようになりました。手話通訳を必要としている方たちを目の当たりにしたり、彼らが幾度も要望されていることを知ったからだと思います。

というのも、先日の東京オリンピック閉会式では、NHKのライブ放送に、手話通訳が付いておりました。私も家で観ておりました。

オリンピックの開会式では、手話通訳が放送では付かなかったということで、当事者団体である全日本ろうあ連盟は、開会式の後、NHKと民放連に手話通訳をつけるよう緊急要望書を提出され、今回の閉会式では手話通訳がつく運びになったようです。
しかもこのNHKの通訳者の方たちはろう通訳者、つまり耳が聞こえない通訳者なんですね。そういえば、歌が流れてるときに、映像を見るだけでこれは通訳はしないんだなー思ったり、手話通訳が2人同時に画面に映ったりして、「ん?」とか思ってましたけど、なるほどそういうことだったんですね。

手話を知らないうちのカミさんも、閉会式を見ながら「この方の表情が豊かですごく良かった!」と絶賛しておりました。

私も今は手話を見て「カッコいい」とか「ずっと見ていられる」という感想を持ちますが、手話を習い始める前はどんな感想を持っていたのか・・・んー残念ながら手話を知らなかった頃の自分の感覚は思い出せません。
それでも、カミさんが感じたように、手話を知らない人にも豊かな表現だと伝わったということは、やはりその方たちはそれだけマジですごいのでしょう。(語彙少な!😅)

冒頭の話、そんな手話通訳の必要性を、オリンピックを通じて示してくれた直後だっただけに、放送局には少しだけでもカメラを引いて欲しかったです。

あるツイートでは、
「手話通訳や字幕が邪魔だという人もいるかもしれないけど、それを喜ぶ人もいる。理解しなくてもいいからわかってほしい。知ってほしい。」
といったことを書かれている方もおりました。

ホントですホントですとリツイート。

長崎の原爆で被爆されたろう者の話を聞くと、子供だった被曝当時は、なにも情報が入ってこず、原子爆弾が投下されたという事実を知ったのは、随分経ってから、大人になってから知ったということでした。これだけの情報の隔たり。70年以上前の話とも思えますが、今回のように今でも課題は残っているように思います。

今度のパラリンピックの開閉会式では手話通訳が付くようです。

手話通訳が付くと映像が小さくなる・・・まぁその気持ちもわからなくもないですが、オリンピックの閉会式の手話通訳では、私にはその場の盛り上がりを一緒になって伝えてくれているようで、見ていて楽しかったですね。
手話は情報を伝える言語であるのは当然として、カミさんが心動かされたように、その表現豊かな手話表現は、声のナレーションだったら抑揚やスピードを変化させて盛り上げるのと同じで、ときに場を盛り上げるひとつの演出ともいえるんじゃないかと思います。
さらにそれを読み取れることができたんなら、より深く気持ちを分かち合えるかも。私はまだまだですけどね😅

とにかく、カミさんが手話通訳の方を賞賛されていたのが嬉しかったです。

これをきっかけに手話に少しでも興味持って、近くの手話サークル学習会などに参加してみる方が増えたらうれしいですね。
もしかしたら新たな世界への扉が開いてしまうかもしれませんよ~。😀

それではまたノシ

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