これまでのあらすじ
前回、前々回と、東望山砲台跡に始まったひがなが砲台跡の旅も、今回で最終話となります。
これまでの話の流れをざっくり説明すると、
- 近所で史跡といえば、と最初に思いついた「東望山砲台跡」に行ってみる。
- ここのほか、かき道と牧島にも砲台が築かれたことを知る。
- かき道の砲台跡を探すが、明らかなる跡は見つからず。
そして、3つ目の砲台跡である「牧島」の砲台跡を目指します。
牧島を目指す
牧島は「島」でありますが、本土の目の前、現在は橋でつながっています。
息子と二人でチャリにまたがり、研究所から牧島を目指します。
車で行くのはロマンがないというか、入り込みすぎて車がUターンできなかったらどうしようという懸念がありましたので(;´Д`)
以前魚釣りをと、橋の手前まで行ったことはありましたが、島内に入ったことはありませんでした。
↑なぜこのアングルから撮影したのだろう。
右側に吊橋っぽいのが見えますが、そちらはかつての牧島橋で、現在使われているのは写真左側にかかっている2車線分の橋の方です。写真に肝心の現在の橋がほとんど映り込んでいません(;´Д`)
かつての吊橋は車1台分しか通らないくらい狭い幅だったようです。支柱(というのか)以外は撤去されています。記録には昭和35年4月1日竣工とあります。
長崎には多くの離島がありまして、私も出張などで行くことが多々ありますが、あの、なんといいましょうか「離島感」というのかな?、時間の流れが緩やかになったような感じや、海に囲まれた感?(本土と陸で繋がっていないという孤立感?)など、言葉では言い表せない感覚を覚えます。
牧島に入ってしばし・・・・それと同じような感覚を感じます。
おそらく島に入ったという認識と、コンビニなどがなく民家しかない情景がいわゆる他の離島の雰囲気を醸し出し、そう思わせたのだろうと思いますが。
とはいえ、こんなご近所でこんな感覚を得ることができるなんて思ってもいませんでした。
決してコケにしているわけではございませんのであしからず。これは敬意です!
文献「2000年の東長崎(平成13年11月3日印刷発行、発行元:東長崎地区連合自治会)」によれば、
かつて無人島だった牧島は、貞享年間(1682年)主諫早家の牧場となって明治元年まで続き、往時は馬番として11~2戸の人家があるに過ぎず、漁獲と耕作を兼ねて生活していた。そのため牧島という名がついたという。
かつては牧場だった・・・、だから牧島なんですね。
説明文によると、池田先生は大正9年㋃にこの牧島の学校(分校)に赴任され、
- 18年の長きにわたり補習も含め牧島の子供たちを熱心に教育
- 運動場が狭かったため、隣接する自らの私有地を解放
- 離島だった牧島に難題だった電燈を導入し、牧島の発展に貢献
という偉大なるお方であります。
砲台跡を探す
このあたりからなかなかの登り坂になっておりまして、息子は自転車を押しながらすでにうんざりしております。確かに頂上が見えないくらい坂道ですねぇ。このまま行くかあきらめるか悩みどころですが、ここであきらめて帰っては冒険者の名がすたります!
少し上ると、バス停を発見。画像では確認できないと思いますが、バス停の名前が「黒瀬入口」・・・だと!?
何か「黒瀬」砲台跡って聞いたことあったような・・・。
(このときはそう思いましたが、後で調べてみましたが、まぁ当たってはいるのですが、壱岐にある黒崎砲台跡と混同していたのかもしれません。)
っていうか、執筆時点(2014年5月)ではこのバス停廃止されているんですね・・・(2014年3月末廃止。写真撮影は2014年3月23日)なんだか寂しいですね。
よし!登るぞ!と同伴の息子とともにさらに急になった坂道を自転車を押して登ります。もはや息子は体力切れで、結局私が自転車を両手で2台押して登るという労働を強いられます。なかなかつらいデス!
登りきったところは墓地。ここまで来たら登りきらなければ気がすみません。狭い道をとことん登ります!
やっと下り坂になったようなところで、周りを見回す。
・・・・畑しか・・・ありません。
(砲台跡は無きにしも、看板くらいはあるのかなと期待していたのですが・・・。)
おそらく、このあたりのどこかにかつて砲台があったのでしょう。
これ以上の探索は息子もすでに飽きていたし、今回は無理と判断し、折り返して家路につきました。
後日調査の結果
文献「2000年の東長崎」を調べた結果、現在の台場跡について下記のとおり掲載されておりました。
戸石(牧島):田畑になりし跡なし
そうですかあああああ。
牧島には、このほか、曲崎(まがりざき)古墳群や穴弁天(洞窟?)などがあるそうで、また今度冒険して、ご紹介してみたいと思います!